【読書ログ】ビッグデータと人工知能 〜可能性と罠を見極める〜

西垣 通 著 中公新書 2016年

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読後感

流行りの考えに、一石を投じる一冊!

 

シンギュラリティーへの考えか方には、文化的背景や宗教観、自然観などが関連していることに気づいた。また、シンギュラリティーに限らずITの進歩を論ずる時にもダイバシティーは非常に大切であると感じた。なぜならば文化的背景、または価値観が異なると、ある技術の描く未来図の評価が変わってくるからだ。

また人工知能が人間よりも賢くなると言う考えは、やはり、どこかずれていると改めて感じた。人工知能を作るのは人間であり、人を上回るのは処理速度と記憶容量であって、総合的に、存在的に人を上回ることは出来ない。

 

〜以下、備忘録的に抜粋〜

ビッグデータと言う言葉は1種のバズワードの感もあるが、たとえ言葉自体が陳腐化し滲目立たなくなっても、概念そのものは消滅することなく21世紀の中枢概念として情報社会を支えていくだろう。なぜならばそこにはこれまでの人類文化子にない新たな特徴がいくつもあるからだ。

3つの特徴

①文字通り桁違いのデータ量(ボリューム)

②データの種類が多いこと(バラエティー

単に種類が多いと言うだけではなく肝心なのはそれら多様なデータを別々に扱うのではなく、いわば有機的に連結して扱えると言うことが重要。

③こうした大規模なデータ群を取得し処理しうる革新的なハードソフトウエアー技術の出現。特に父親交通、Twitterでの発信などリアルタイムで目まぐるしく流れていく膨大なデータは使えるようになったでは見逃せない。(ストリームデータ)その処理のキーポイントとして速度(ベロシティー)が浮かび上がってくる。

この3つ  Volume , Variety, Velocity がビッグデータの3つの特徴と言える。

およそ昔はどこもないスピードで大容量データを見なさすぎなどそれほど多くはなかった。では一体何が大きな社会的変化が起きたのか、それはまさに「我々自身」なのである振り返ってみよう2000年代半ば過ぎウェブ2.0と言うバズワードが世の中を駆け抜けた。これは平たく言えば誰でも発信できるウェブだと思って差し支えない。

変化したこと、「データの富を得る」と言う発想の出現である。

 

インダクションとアブダクション

人間の論理的な思考においては演繹と帰納がその壁をなしている。ところが実はこの演繹と帰納のほかに「仮説推量(アブダクション)」と言うのがある。これが、人工知能の可能性と関わる。

 

第2章 機械学習のブレイクスルー

仮設推量のことは、誤りのリスクから逃れられない。

人間は、日常、常識と言われるもに基づいてフレキシブルに行動している。だが、この常識と言うものが曲者で言わな矛盾誤りだけの代物なのである。

 

人工知能は問題の論理的フレーム(枠組み)が明確にならない、関連した知識の選択ができない。言い換えると文脈を読むことが人工知能には困難だということに対応している。

仮設水量には演劇で得られた結論のような絶対的確実性はないのである。

 

第3章人工知能が人間を超える?

真相学習で人工知能が獲得する概念らしきものは、人間社会で通用している概念とぴったり1するとは限らない。

コンピューターに限らず一般に機械とは再現性に基づく静的な存在である。

これに対して、生物とは流れゆく時間の中で状況に対処しつつ、絶えず自分を変えながら生きる動的な存在である。この相違は途方もなく大きい。

 

脳とは、我々が外側からなるべく客観的絶対的に分析把握するものであり、一方心とは我々が内側から主観的相対的に分析把握するものだ。

 

機械は人間が設計するものだだからその作動の仕方が他律的である一方生物は自生するものだからその作動の仕方は自律的である。

 

社会で使われる記号の意味の解釈はコミニケーションと不可分だからである。意味解釈が大きく食い違い番会話のキャッチボールができずコミニケーションが成立しない。

人間のコミニケーションを指摘で柔軟な共感作用、人工知能の疑似コミニケーションは指令的で定型的な伝達作用に特徴がある。

 

第4章 自由、責任、プライバシーはどうなるか

汎用人工知能と言うものが君臨する社会でとりわけ困った点は、それが無責任社会になることである。

シンギュラリティー仮説の信奉者は、こーゆー事態の到来をどう考えるのだろうか。客観的なデータの分析はもちろん大切だが、個々の人間は心を持ち主観的な世界に生きているのだ。

 

現在ビックデータと人工知能組み合わせたときに見えてくる未来図が真剣に議論されているのは何故か、と言うと、問題点の1つとして科学技術分野は多かれ少なかれ日本のIT業界は原則として徹底した大部追随であるからだ。

 

大切なのは全く違う文化的背景から出てきたシンギュラリティー仮説の中身を根本からよく考察し吟味することである。かつて第5世代コンピュータープロジェクトが失敗した理由は技術水準や努力の不足ではなくリーダーの視野が狭かったことなのであるこれが第二の問題点である。

第5章 集合知の新展開

 

集合地についての言及

分散日まで集団内の個々の推測値のばらつきが大きいほど集団的推測の精度が上がると言うことだ。とりわけ集合地を支えるのはいわゆる暗黙知だろう。暗黙知と言うのは明示的に表現できない知識のことである自転車に乗る気のはその好例だ。暗黙知の本質は対象の細目の意味を踏まえて、対象全体の意味を直感的かつ包括的に捉えるところにある。

人工知能すなわちアーティフィシャルインテリジェンスと言う名称にはどこか矛盾した響きがある。なぜなら知能とは本来自然の生命活動と不可分であって人工物にはなりえないからだ。

繰り返しになるが生物は現在の状況に応じた柔軟な問題設定と情報の意味解釈によって生きてゆく自律的存在である。一方で機械は失礼通りのアルゴリズムで過去のデータを形式的に高速処理する他律的存在である。

 

あとがき から

インターネットや人工知能技術の基層には、

高みを目指す一神教的な理想主義と重荷があるのだ。私が期待するのは今の若い世代である。彼らがアジア的ともいえる多様な価値観と批判精神を持ってグローバルなIT空間日本香臭臭する日が近いのではないか。その時あなたに多元的な理想主義がしなやかで皮抑圧的な21世紀の世界を実現するために現れてくるはずである。